« 2012年1月 | トップページ | 2012年3月 »

2012年2月

2012年2月26日 (日)

朱工房情報‼

もうすぐひな祭り!

ひな祭りが終われば端午の節句!

端午の節句と言えば……

男の子の日‼

初孫に!

お子様に!

ご自分に?

自分で鎧兜・甲冑を製作してみませんか?

朱工房では、
自分で鎧兜・甲冑を製作して頂けます!

どなたでも簡単に鎧兜・甲冑が製作できます!

当工房では、
女性用・子供用もありますので、
ご興味があればなんなりとご質問下さい。

ご連絡お待ち致しております(⌒▽⌒)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年2月22日 (水)

戦国武将と茶

今日は戦国武将のたしなみの一つであり、
天下人から各諸大名達までが愛した「茶」をご紹介します。

茶の道で有名な人。

千利休(せんのりきゅう)

についてお話しします。

信長、秀吉という2人の天下人に仕え、
茶道千家流の始祖となった“茶聖”千利休。

本名は田中与四郎。
号は宗易(そうえき)。

大阪堺の魚問屋『ととや』に生まれる。

当時の堺は貿易で栄える国際都市であり、京の都に匹敵する文化の発信地でした。

堺は戦国期にあって大名に支配されず、
商人が自治を行ない、
周囲を壕で囲って浪人が警備をするという小さな独立国の様だったようです。

多くの商人は同時に優れた文化人でもあったみたいです。

父は堺で高名な商人であり、
利休は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に16歳で茶の道に入ります。

18歳の時に当時の茶の湯の第一人者
武野紹鴎(じょうおう)
の門を叩き23歳で最初の茶会を開きました。

紹鴎の心の師は、
紹鴎が生まれた年に亡くなります。

「侘(わ)び茶」の祖
村田珠光(じゅこう、1423-1502)。

珠光は“あの”一休の弟子で、人間としての成長を茶の湯の目的とし、
茶会の儀式的な形よりも、
茶と向き合う者の精神を重視していました。

大部屋では心が落ちつかないという理由から座敷を屏風で四畳半に囲ったことが後の茶室へと発展していきます。

紹鴎は珠光が説く、
「不足の美」(不完全だからこそ美しい)
に禅思想を採り込み、
高価な名物茶碗を盲目的に有り難がるのではなく、
日常生活で使っている雑器(塩壷など)
を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努めました。

そして、精神的充足を追究し、“侘び”(枯淡)を求めました。

利休は師の教えをさらに進め、
“侘び”の対象を茶道具だけでなく、
茶室の構造やお点前の作法など、
茶会全体の様式にまで拡大していきます。

また、当時は茶器の大半が中国・朝鮮からの輸入品であったが、
利休は新たに樂茶碗など茶道具を創作し、
掛物には禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選びました。

利休は“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を削って緊張感を生み出し、
村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させました。

1568年 利休が46歳の時、
活力に湧く自由都市・堺に信長が目をつける。

信長は圧倒的な武力を背景に堺を直轄地にし、
軍資金を差し出させ鉄砲の供給地としました。

新しいモノに目がない信長は、堺や京の町衆(町人)から強制的に茶道具の名品を買い上げ(信長の名物狩り)、
武力・政治だけでなく文化の面でも覇権を握ろうとします。

信長は許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、
武功の褒美に高価な茶碗を与えるなど、
あらゆる面で茶の湯を利用しました。

※現代でも高価な茶碗は重宝されます。

戦国武将たちにとって名物茶器は一国一城に値する物で、
その価値は今とは比較にならないものだったのです。

それを示す話しとして有名な話しがあります。

名物茶釜「平蜘蛛釜」を所有していた大和の武将・松永久秀は数度にわたって信長を裏切っているにもかかわらず、
信長は問答無用で攻め滅ぼす事をしませんでした。

1577年、信貴山城にこもった久秀を2万の織田軍で包囲した際、

「もし平蜘蛛釜を差し出せば命までは奪わぬっ!」

と降伏勧告を信長が出しました。

信長が喉から手が出るほど平蜘蛛釜を欲していた事を知っていた久秀は、

「信長にはワシの首も平蜘蛛釜もやらぬっ!」と、

なんと平蜘蛛釜に火薬を詰めて自分の首に縛り付け、
釜もろとも爆死して天守閣を吹っ飛ばしたと言う説があります。

現代では信じられなけど、
茶器が人の命を左右する時代が日本にはありました。

※(利休は43歳の時に久秀主催の茶会に茶匠として招かれています)

信長は堺との綱をより堅固と すべく、
政財界の中心にいて茶人で
もあった3人、
今井宗久(そうきゅう)、
津田宗及(そうぎゅう)、
利休を、
茶頭(茶道、茶の湯の師匠)
として重用しました。

利休は1573年(利休51歳)、
1575年(53歳)と2度、
信長主催の京都の茶会で活躍します。

信長の家臣は茶の湯に励み、
ステータスとなる茶道具を欲しがりました。
彼らにとっての最高の栄誉は信長から茶会の許しを得る事でした。

必然的に、茶の湯の指南役となる利休は一目置かれるようになります。

利休60歳の1582年6月1日、
本能寺にて信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催されました。
そしてこの夜、信長は明智光秀の謀反により、多数の名茶道具と共に炎に散りました。

後継者となった秀吉は、
信長以上に茶の湯に熱心だったそうです。

秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りし、
後に「利休十哲」と呼ばれる、
細川三斎(ガラシアの夫)、
織田有楽斎(信長の弟)、
高山右近(キリシタン)、
“ひょうげもの”古田織部など、
優れた高弟が生まれました。

1585年(利休63歳)、
秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、
天皇から「利休」の号を賜わります。
(それまでは宗易と名乗っていました)。

このことで、その名は天下一の茶人として全国に知れ渡たります。

翌年に大阪城で秀吉に謁見した大名・大友宗麟は、
壁も茶器も金で統一された、
「黄金の茶室」
で茶を服しました。

のちに吉麟は、
「秀吉殿に意見を言えるのは利休しかいない」と記したそうです。

秀吉は茶会を好んだが、

本能寺で大量の名物茶道具が焼失したこともあり、
自慢できる茶器が不足していました。

そこで利休は積極的に鑑定を行ない新たな「名品」を生み出していくのです。

天下一の茶人の鑑定には絶大な信頼があり、
人々は争うように利休が選んだ茶道具を欲しがるようになりました。

利休は自分好みの渋くストイックな茶碗を、
ろくろを使用しない陶法で知られる樂長次郎を楽焼職人に造らせました。

武骨さや素朴さの中に“手びねり”ならではの温かみを持つ樂茶碗を、
人々はこれまで人気があった舶来品よりも尊ぶようになり、
利休の名声はさらに高まりました。

1587年(利休65歳)、
秀吉は九州を平定。

実質的に天下統一を果たしました。

祝勝と、内外への権力誇示を目的として、史上最大の茶会、
「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」
を北野天満宮で開催します。

この茶会には公家や武士だけでなく、
百姓や町民も身分に関係なく参加が許されました。

まさに国民的行事?

秀吉は「茶碗1つ持ってくるだけでいい」と広く呼びかけ、
利休が総合演出を担当しました。

当日の亭主には、
利休、
津田宗及、
今井宗久、
そして秀吉本人という4人の豪華な顔ぶれが並びました。

拝殿では秀吉秘蔵の茶道具が全て展示され、
会場全域に設けられた茶席は実に800ヶ所以上となりました。

秀吉は満足気に各茶席を見て周り、
自ら茶をたて人々にふるまったと伝えられます。

ある初夏の朝。

利休は秀吉に、

「朝顔が美しいので茶会を致しませぬか?」

と使いを出しました。

秀吉が、

「満開の朝顔の庭を眺めての茶会はさぞかし素晴らしいのだろうな。」

と楽しみにやって来ると、
庭の朝顔はことごとく切り取られ、
全くなかった。

ガッカリしながら秀吉が茶室に入ると、
床の間に一輪だけ朝顔が生けてあった。
一輪であるがゆえに際立つ朝顔の美しさ。
秀吉は利休の美学に脱帽したといいます。

秋に庭の落ち葉を掃除していた利休がきれいに掃き終わると、
最後に落ち葉をパラパラと撒いた。

「せっかく掃いたのになぜですか?」

と人が尋ねると、

「秋の庭には少しくらい落ち葉がある方が自然でいいでしょう。」

と答えたそうです。

弟子に、

「茶の湯の神髄とは何ですか?」

と問われた時の問答ですが。

「茶は服の良き様に点(た)て、
炭は湯の沸く様に置き、
冬は暖かに夏は涼しく、
花は野の花の様に生け、
刻限は早めに、
降らずとも雨の用意、
相客に心せよ」

と説いたとされます。

(以上の答えを『利休七則』と言います。)

当たり前のことこそが最も難しいと利休は悟しました。

秀吉は茶の湯の権威が欲しくて、
「秘伝の作法」を作り、
これを秀吉と利休だけが教える事の出来る資格としました。

利休はこの作法を織田有楽斎に教えた時に、

「実はこれよりも、
もっと重要な一番の極意があります。」

と告げました。

「是非教えて下さい!」

と有楽斎が言うと…

利休曰く「それは自由と個性なり」と答えたそうです。

利休は秘伝などと言うもったいぶった作法は全く重要ではないと説いたのでした。

利休が設計した二畳敷の小さな茶室。

『待庵(たいあん)』(国宝)

は、限界まで無駄を削ぎ落とした究極の茶室だそうです。

利休が考案した入口(にじり口)は、
間口が狭いうえに低位置にあり、
いったん頭を下げて這うような形にならないと中に入れません。

それは天下人となった秀吉も同じだで、
しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。
つまり、
一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、
茶室という空間の中では、
何人も、
「平等の存在」
になるというものだった。

このように、
茶の湯に関しては秀吉といえども利休に従うしかなかった様です。

利休が残した言葉に、
「世に茶飲むる人は多けれど、
茶の道を知らぬは、
茶にぞ飲まるる」。

(茶の道を知らねば茶に飲まれる)

と言う言葉があるそうです。

利休と秀吉は茶の湯の最盛期。

「北野大茶湯」が蜜月のピークでした。

やがて徐々に両者の関係が悪化してゆきます。

秀吉は貿易の利益を独占する為に、
堺に対し税を重くするなど様々な圧力を加え始め、
独立の象徴だった壕(ごう)を埋めてしまいます。

これは信長でさえやらなかった事だそうです。

堺の権益を守ろうとする利休を秀吉は煩わしく感じ初めます。

1590年(利休68歳)、
秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、
利休の愛弟子・山上宗二が、
秀吉への口の利き方が悪いとされ、
その日のうちに処刑されます。
(しかも耳と鼻を削がれて)

衝撃を受ける利休。

茶の湯に関しても、
秀吉が愛したド派手な「黄金の茶室」は、利休が理想とする木と土の素朴な草庵とは正反対のもの。

秀吉は自分なりに茶に一家言を持っているだけに、
利休との思想的対立が日を追って激しくなっていきます。

そして翌1591年!1月13日の茶会で、
派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながらも利休は、

「黒は古き心なり!」

と平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出しました。

他の武将が居る前で秀吉は面目を潰されてしまいます。

9日後の22日、温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。

秀長は諸大名に対し、

「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る!」

と公言するほど利休を重用していました。

利休は最大の後ろ盾をなくしました。

それから1ヵ月後の2月23日、
利休は突然秀吉から

「京都を出て堺にて自宅謹慎せよ!」

と命令を受ける。

利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際に、
門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われました。

(正確には利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に置いたとされています)

大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、
上から見下ろすとは無礼極まりないという事だった。

秀吉は利休に赦しを請いに来させて、
上下関係をハッキリ分からせようと思っていたようです。

秀吉の意を汲んだ家臣団のトップ。

前田利家は利休のもとへ使者を送り、
秀吉の妻(おね)、
或いは母(大政所)
を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言する。

だが、利休はこれを断った。

「秘伝の作法」に見られるような、
権力の道具としての茶の湯は、
「侘び茶」の開祖・村田珠光も、
師の武野紹鴎も、
絶対に否定したはず。

秀吉に頭を下げるのは先輩茶人だけでく、
茶の湯そのものも侮辱することになる。

利休には多くの門弟がいたが、
秀吉の勘気に触れることを皆が恐れて、
京を追放される利休を淀の船着場で見送ったのは古田織部と細川三斎のたった2人だけだった。

利休が謝罪に来ず、
そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達した。

2月25日。
利休像は山門から引き摺り下ろされ、
京都一条戻橋のたもとで磔にされる。

26日、秀吉は気が治まらず、
利休を堺から京都に呼び戻す。

27日、織部や三斎ら弟子たちが利休を救う為に奔走。

そして28日。

この日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。

利休のもとを訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は…。

「切腹せよ」。

この使者は利休の首を持って帰るのが任務だった。

利休は静かに口を開く。

「茶室にて茶の支度が出来ております。」

使者に最後の茶をたてた後、利休は一呼吸ついて切腹した。

享年69歳でした。

利休の首は磔にされた利休の木像の下に晒されました。

利休の死から7年後。

秀吉も病床に就き他界する。

晩年の秀吉は、
短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、
利休と同じ作法で食事をとったり、
利休が好む枯れた茶室を建てさせたと伝えられます。

さらに17年後の1615年。

大坂夏の陣の戦火は堺の街をも焦土と化し、
ここで豊臣家は滅亡しました。

後日談、

利休の自刃後に高弟の古田織部が秀吉の茶頭となりました。

秀吉が没すると、
織部は家康に命じられて2代徳川秀忠に茶の湯を指南した。

だが、
織部の自由奔放な茶が人気を集め始めると、
家康は織部が利休のように政治的影響力を持つことを恐れるようになり、
そして…

大阪の陣の後に、

「織部は豊臣方と通じていた」

として切腹を命じた。

利休、織部に切腹命令が出たことは世の茶人たちを萎縮させた。

徳川幕府の治世で社会に安定が求められると利休や織部のように既成の価値観を破壊して新たな美を生み出す茶の湯は危険視され保守的で雅な、

「奇麗さび」

とされる小堀遠州らの穏やかなものが主流になります。

後年、
利休の孫・千宗旦が家を再興する。

そして宗旦の
次男・宗守が『武者小路千家官休庵』を、
三男・宗佐が『表千家不審庵』を、
四男・宗室が『裏千家今日庵』を、
それぞれ起こしました。

利休の茶の湯は400年後の現代まで残り、
今や世界各国の千家の茶室で多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいます。

利休が公式に開いた最後の茶会の客は家康だったそうです。
(切腹の1ヶ月前)

以上の様に今ではあまり知られていない、
「茶の会」。

昔は今と違い「茶」は凄く大切であり、
嗜むべき物でした。

皆さんも一度、茶道を始めてみては如何でしょうか?(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年2月18日 (土)

マイウゥゥ~!

昨日、

嫁ちゃんの病院に行く為に神戸の元町まで行ってきました。

早めに神戸に行ってたから少し時間が余り、
神戸をブラブラ♪( ´▽`)

お腹が空いたのでご飯を食べる事に。

そして…

選んだのは……

神戸牛のステーキ♡♡♡

神戸元町商店街の中にあります「神戸牛・ヘンリー亭」!

お店はこんな感じです(⌒▽⌒)


1329538714120.jpg

中に入り注文!

私も嫁ちゃんも、

特選ランプステーキ

なる定食?

を注文。♪( ´▽`)

そして、

まずは生ハムサラダ( ̄▽ ̄)


1329538719143.jpg

まぁサラダは普通でした( ̄ー ̄)

お次はご飯とお味噌汁と漬物。

そして!

ステーキ♡


1329538722920.jpg

ステーキは焼き加減もお肉の味もめっちゃ美味しかったです!♪( ´▽`)


1329538726888.jpg

余り脂っこくもなく、
いくら食べても胸焼けがしない!( ̄▽ ̄)

ソースはポン酢と多分赤味噌ベースのソースやと思うんですが……(−_−;)

とにかく美味しいステーキでしたよ♡
♪( ´▽`)

良かったら皆さんも行ってみて下さい!
m(_ _)m

「店名」 神戸牛・ヘンリー亭

「住所」神戸市中央区元町通5-3-16

「TEL」 078-361-0361

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年2月17日 (金)

徳川家の甲冑開き

徳川家では具足開きという風習がありました。

家康公が関が原の合戦で着用した歯朶具足を黒書院に飾り江戸開府時を偲んだと伝わります。

歯朶具足の由来は、
家康公が霊夢により悩まされ、
奈良の甲冑師(函工)、
岩井与左衛門に命じて作らせたと伝えられています。

兜に生革金箔置きの歯朶の前立が添うところから、歯朶具足(しだのぐそく)と呼ばれました。

関が原の合戦で着用し、
大阪の陣に身近に置いて勝利を得たことで吉祥の鎧として尊ばれました。


1329460814045.jpg


歯朶具足(久能山東照宮博物館所蔵)       

1329460819387.jpg

この甲冑に付属する歯朶の前立。

家康薨去後、久能山に安置されましたが家康を崇拝していた3代家光が江戸城に移管し、将軍家の武器の筆頭に位置付けられました。

四代家綱は、この具足を模造して御写形(おうつしかた)と称し、毎年正月11日に黒書院に床飾りされる事になりました。

この行事は代々の将軍が受け継ぎ、幕末まで続く様になりました。

一般には余り知られていない具足開き・鎧開き。

これを機会に歴史や風習を知り、大切にしていって下さい。m(_ _)m

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年2月12日 (日)

ムフフ♡

今日はOFF( ̄ー ̄)

梅田に嫁ちゃんと娘ちゃんとオイラとで行ってきました♪( ´▽`)

梅田で久しぶりにお買い物( ´ ▽ ` )

でも…

オイラは革の手袋だけ買ったんだけどねん( ̄▽ ̄)

ってか、

皆手袋買いました( ̄ー ̄)

そして、

買い物もそこそこに、お腹が減ったので晩ご飯にしました。

晩ご飯は迷いに迷って……

フレンチにしました。

まずは…


前菜。

人参を使った……

ゼリー状の⁇⁇

と、シュー生地の中に豆の……

なんやったっけ?( ̄◇ ̄;)

1328972757810.jpg

お次は……


1328972764174.jpg

ホタテと大豆のバルサミコソース。

そして、


1328972765292.jpg

洋ワサビと⁇⁇蟹の⁇⁇のオレンジソース添え(~_~;)

すいませんm(_ _)m

ド忘れしちゃいました( ̄◇ ̄;)

そしてメイン料理!

私は牛の頬肉の赤ワイン煮。


1328972766439.jpg


嫁ちゃんは鴨のロースト


1328972767878.jpg

娘ちゃんはフォアグラと牛ヒレ肉。

〆のデザートは…

私はこれ!


1328972769208.jpg

嫁ちゃんと娘ちゃんはこれ!


1328972770325.jpg

しかし!

値段の割りには味はイマイチでした~‼

ガ~(´Д` )~ンッ‼

まぁ~これも勉強!(>へ<)

今度は美味しいお店を探そぉ~!っとっ!ψ(`∇´)ψ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年2月11日 (土)

変わり兜

以前の続きで変わり兜を紹介します。

まずは、


1328886536690.jpg

熊毛植大水牛兜(くまげうえおおすいぎゅうかぶと)

これは文字通り熊の毛皮を頭形兜に貼り付けて製作した物です。

次は、


1328886541863.jpg

蝶形兜(ちょうなりかぶと)

これも頭形兜に和紙で張りかけて製作します。

次は、


1328886543227.jpg

鯖尾形兜(さばおなりかぶと)

これは鉄板を打出あるいは矧ぎ合わせて漆を厚塗りした兜です。

次は、


1328886544433.jpg

鯱尾形兜(しゃちおなりかぶと)

これは和紙で張りかけて製作されてます。

昔は変わった形の兜は鉄板・和紙・木等で製作されていました。

次は、


1328886545777.jpg

立雲形兜(たちぐもなりかぶと)


1328886546808.jpg

菊重形兜(きくがさねなりかぶと)


1328886548143.jpg

蟹形兜(かになりかぶと)

昔の職人さん・武将は色々な物を兜と言う物に具現化し、願掛けをしたのだと考えられます。

他にも、


1328886549573.jpg

唐冠形兜(とうかむりなりかぶと)


1328886550686.jpg

角頭巾形兜(すみずきんなりかぶと)

等と色々な物を兜としました。

植物・食べ物・生き物・風景等、昔の人は本当に想像が豊かだったんだなぁーと思う作品ばかりです。

本当に日本の鎧兜・甲冑は凄いし素晴らしい!(>_<)

皆さんも、もっと日本の鎧兜・甲冑を知って下さい!

そして、

日本の伝統工芸を大切にし、

保存が出来る様に協力して下さいm(_ _)m

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年2月 7日 (火)

凄い兜!

今日は変わり兜を紹介します!( ´ ▽ ` )ノ
まず、

一般的な兜をお教えします。

一般的に端午の節句で知られる兜を、

筋兜(すじかぶと)

と言います。

そして、

彦根でお馴染み!

朱具足の井伊家の兜を、

頭形兜(ずなりかぶと)

と言います。

ただし!

横についている金の角を外した状態での事です。

その一般的な兜に和紙等を使い張りかけて形を形成した兜の事を変わり兜と言います。

その種類は正確にはわかってませんが。

有に何千種類とあるとされます。

ここにいくつか変わり兜を載せます。

まずは有名な武将の兜から。

豊臣秀吉の兜。


1328591042020.jpg

一ノ谷形兜(いちのたになりかぶと)。


次は、

徳川家康の兜。


1328591047898.jpg


大黒頭巾形兜(だいこくずきんなりかぶと)。

黒田長政の兜。


1328591049098.jpg

銀箔押一ノ谷形兜(ぎんぱくおしいちのたになりかぶと)。

松平信一の兜。


1328591051053.jpg

黒漆塗木菟形兜(こくしつぬりみみずくなりかぶと)。

まだまだありますがまた後程紹介していきますね(⌒▽⌒)

お次は、

ウサギの耳を模した兜。

1328591052568.jpg

兎耳形兜(とじなりかぶと)。

説では、ウサギの様に俊敏に戦場でも動き回れる様に等といった願掛けの意味合いで製作されたとされます。

次は、

蜻蛉形兜(とんぼなりかぶと)。

1328591053567.jpg

昔から蜻蛉は縁起虫とされ、別名「勝虫」とされて武将達に好まれてきました。

この兜も戦での神がかり的な活躍を願い製作されたのかも知れない…。

以上が変わり兜の一部になります。

次は変わり兜でも優美な変わり兜を紹介します。( ´ ▽ ` )ノ


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年2月 6日 (月)

京都に…

行ってきましたー(⌒▽⌒)

と言ってもご飯食べて嫁ちゃんのショッピングに付き合っただけやけど…(~_~;)

でも、
京都にはよく行くからこんな日もいぃかも( ̄▽ ̄)

お昼と夜を兼ねて食べに行ったお店がなかなか楽しかった♪( ´▽`)

八坂神社に行く途中の目立たない路地にそのお店はあるんです。

八坂神社にブラブラ行こうと向かって居るとチラシを配ってるお店の人が居て、
チラシを見たら、
前に食べに行ったお店やって、
すぐに嫁ちゃんと「食べに行こう」って決まってお店に。

まずは、

料理を注文。

私も嫁ちゃんも同じ定食に。

それは……………。

伊勢海老御膳!

前菜がこれ!


1328458416027.jpg

この前菜がまたマイウゥゥ~♡( ´ ▽ ` )

どれも、
いぃ味付けで、
濃くもなく薄くもないちょうどぃぃ味付けでした。(⌒▽⌒)

お次は………

お造り。


1328458422238.jpg


1328458424193.jpg


お造りも新鮮で脂の乗った美味しい刺身でした( ̄▽ ̄)

次は天ぷら!


1328458427561.jpg

これもマイウゥゥ~♡( ´▽`)


1328458432177.jpg

抹茶のお塩か出汁で食べるんやけど、
めっちゃマイウゥゥ~‼‼(´Д` )

カリッと揚がった天ぷらに抹茶塩!

最高~!(´Д` )

そして、

いよいよメインの伊勢海老!

伊勢海老は鍋になって出てきました!
( ̄▽ ̄)

またまたマイウゥゥ~!( ´▽`)

これは写真を撮るのを忘れました!
( ̄◇ ̄;)

お店の店主と女将さんと話しながら、
楽しさのあまりと伊勢海老の美味しさに夢中になって食べてしまいました………
((((;゚Д゚)))))))

女将さんの話しによると……

なんと‼

女将さんはあの有名なアーティストの、

KREVAさん

のお母さんのお友達なんだそうです!

((((;゚Д゚)))))))

そして、

私の仕事の話しもしてて、

女将さんがKREVAさんに私のお仕事のDMを渡してくれるとの事⁉(; ̄O ̄)

今度渡しに行ってこよぉ~っと ♬( ´ ▽ ` )笑

話しも弾み食事も終盤。

伊勢海老鍋を赤麦ご飯と味噌汁、
漬物で食べて。


1328458436410.jpg

最後にデザートにキュウイとオレンジを頂きました(⌒▽⌒)

ご飯も食べ終わり会話もそこそこに。

また来る約束をして楽しいお食事タイムは終了~!( ̄ー ̄)

そして、

寒がりな嫁ちゃんに温かい服を買ってあげ様と思いショッピングに!( ´ ▽ ` )

そこで行きつけの京都OPAQUE店に。

そこで数点買い物して帰ってきました( ̄▽ ̄)

今日のOFF日はなかなか楽しい一日になりました(⌒▽⌒)

今日行ったお店を紹介します!

「店名」 海老泉(えびせん)

「住所」 京都市東山区祇園町北側282-6アミカビル2 1F

「TEL」 075-551-5328

「営業時間」 午前 11:30〜14:30
午後 17:00〜23:00

良かったら皆さんも行ってみて下さい(⌒▽⌒)

中々楽しいですよ♪( ´▽`)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年2月 5日 (日)

今から……

今日はOFFなんで遊びと仕入れをかねて、
京都に行ってきます!♪( ´▽`)

また後ほどブログをUPするんで、
良かったら覗いて下さい♪( ´▽`)

では!( ´ ▽ ` )ノ

行ってきまっしゅっ!(((o(*゚▽゚*)o)))

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年1月 | トップページ | 2012年3月 »