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2012年2月22日 (水)

戦国武将と茶

今日は戦国武将のたしなみの一つであり、
天下人から各諸大名達までが愛した「茶」をご紹介します。

茶の道で有名な人。

千利休(せんのりきゅう)

についてお話しします。

信長、秀吉という2人の天下人に仕え、
茶道千家流の始祖となった“茶聖”千利休。

本名は田中与四郎。
号は宗易(そうえき)。

大阪堺の魚問屋『ととや』に生まれる。

当時の堺は貿易で栄える国際都市であり、京の都に匹敵する文化の発信地でした。

堺は戦国期にあって大名に支配されず、
商人が自治を行ない、
周囲を壕で囲って浪人が警備をするという小さな独立国の様だったようです。

多くの商人は同時に優れた文化人でもあったみたいです。

父は堺で高名な商人であり、
利休は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に16歳で茶の道に入ります。

18歳の時に当時の茶の湯の第一人者
武野紹鴎(じょうおう)
の門を叩き23歳で最初の茶会を開きました。

紹鴎の心の師は、
紹鴎が生まれた年に亡くなります。

「侘(わ)び茶」の祖
村田珠光(じゅこう、1423-1502)。

珠光は“あの”一休の弟子で、人間としての成長を茶の湯の目的とし、
茶会の儀式的な形よりも、
茶と向き合う者の精神を重視していました。

大部屋では心が落ちつかないという理由から座敷を屏風で四畳半に囲ったことが後の茶室へと発展していきます。

紹鴎は珠光が説く、
「不足の美」(不完全だからこそ美しい)
に禅思想を採り込み、
高価な名物茶碗を盲目的に有り難がるのではなく、
日常生活で使っている雑器(塩壷など)
を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努めました。

そして、精神的充足を追究し、“侘び”(枯淡)を求めました。

利休は師の教えをさらに進め、
“侘び”の対象を茶道具だけでなく、
茶室の構造やお点前の作法など、
茶会全体の様式にまで拡大していきます。

また、当時は茶器の大半が中国・朝鮮からの輸入品であったが、
利休は新たに樂茶碗など茶道具を創作し、
掛物には禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選びました。

利休は“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を削って緊張感を生み出し、
村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させました。

1568年 利休が46歳の時、
活力に湧く自由都市・堺に信長が目をつける。

信長は圧倒的な武力を背景に堺を直轄地にし、
軍資金を差し出させ鉄砲の供給地としました。

新しいモノに目がない信長は、堺や京の町衆(町人)から強制的に茶道具の名品を買い上げ(信長の名物狩り)、
武力・政治だけでなく文化の面でも覇権を握ろうとします。

信長は許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、
武功の褒美に高価な茶碗を与えるなど、
あらゆる面で茶の湯を利用しました。

※現代でも高価な茶碗は重宝されます。

戦国武将たちにとって名物茶器は一国一城に値する物で、
その価値は今とは比較にならないものだったのです。

それを示す話しとして有名な話しがあります。

名物茶釜「平蜘蛛釜」を所有していた大和の武将・松永久秀は数度にわたって信長を裏切っているにもかかわらず、
信長は問答無用で攻め滅ぼす事をしませんでした。

1577年、信貴山城にこもった久秀を2万の織田軍で包囲した際、

「もし平蜘蛛釜を差し出せば命までは奪わぬっ!」

と降伏勧告を信長が出しました。

信長が喉から手が出るほど平蜘蛛釜を欲していた事を知っていた久秀は、

「信長にはワシの首も平蜘蛛釜もやらぬっ!」と、

なんと平蜘蛛釜に火薬を詰めて自分の首に縛り付け、
釜もろとも爆死して天守閣を吹っ飛ばしたと言う説があります。

現代では信じられなけど、
茶器が人の命を左右する時代が日本にはありました。

※(利休は43歳の時に久秀主催の茶会に茶匠として招かれています)

信長は堺との綱をより堅固と すべく、
政財界の中心にいて茶人で
もあった3人、
今井宗久(そうきゅう)、
津田宗及(そうぎゅう)、
利休を、
茶頭(茶道、茶の湯の師匠)
として重用しました。

利休は1573年(利休51歳)、
1575年(53歳)と2度、
信長主催の京都の茶会で活躍します。

信長の家臣は茶の湯に励み、
ステータスとなる茶道具を欲しがりました。
彼らにとっての最高の栄誉は信長から茶会の許しを得る事でした。

必然的に、茶の湯の指南役となる利休は一目置かれるようになります。

利休60歳の1582年6月1日、
本能寺にて信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催されました。
そしてこの夜、信長は明智光秀の謀反により、多数の名茶道具と共に炎に散りました。

後継者となった秀吉は、
信長以上に茶の湯に熱心だったそうです。

秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りし、
後に「利休十哲」と呼ばれる、
細川三斎(ガラシアの夫)、
織田有楽斎(信長の弟)、
高山右近(キリシタン)、
“ひょうげもの”古田織部など、
優れた高弟が生まれました。

1585年(利休63歳)、
秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、
天皇から「利休」の号を賜わります。
(それまでは宗易と名乗っていました)。

このことで、その名は天下一の茶人として全国に知れ渡たります。

翌年に大阪城で秀吉に謁見した大名・大友宗麟は、
壁も茶器も金で統一された、
「黄金の茶室」
で茶を服しました。

のちに吉麟は、
「秀吉殿に意見を言えるのは利休しかいない」と記したそうです。

秀吉は茶会を好んだが、

本能寺で大量の名物茶道具が焼失したこともあり、
自慢できる茶器が不足していました。

そこで利休は積極的に鑑定を行ない新たな「名品」を生み出していくのです。

天下一の茶人の鑑定には絶大な信頼があり、
人々は争うように利休が選んだ茶道具を欲しがるようになりました。

利休は自分好みの渋くストイックな茶碗を、
ろくろを使用しない陶法で知られる樂長次郎を楽焼職人に造らせました。

武骨さや素朴さの中に“手びねり”ならではの温かみを持つ樂茶碗を、
人々はこれまで人気があった舶来品よりも尊ぶようになり、
利休の名声はさらに高まりました。

1587年(利休65歳)、
秀吉は九州を平定。

実質的に天下統一を果たしました。

祝勝と、内外への権力誇示を目的として、史上最大の茶会、
「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」
を北野天満宮で開催します。

この茶会には公家や武士だけでなく、
百姓や町民も身分に関係なく参加が許されました。

まさに国民的行事?

秀吉は「茶碗1つ持ってくるだけでいい」と広く呼びかけ、
利休が総合演出を担当しました。

当日の亭主には、
利休、
津田宗及、
今井宗久、
そして秀吉本人という4人の豪華な顔ぶれが並びました。

拝殿では秀吉秘蔵の茶道具が全て展示され、
会場全域に設けられた茶席は実に800ヶ所以上となりました。

秀吉は満足気に各茶席を見て周り、
自ら茶をたて人々にふるまったと伝えられます。

ある初夏の朝。

利休は秀吉に、

「朝顔が美しいので茶会を致しませぬか?」

と使いを出しました。

秀吉が、

「満開の朝顔の庭を眺めての茶会はさぞかし素晴らしいのだろうな。」

と楽しみにやって来ると、
庭の朝顔はことごとく切り取られ、
全くなかった。

ガッカリしながら秀吉が茶室に入ると、
床の間に一輪だけ朝顔が生けてあった。
一輪であるがゆえに際立つ朝顔の美しさ。
秀吉は利休の美学に脱帽したといいます。

秋に庭の落ち葉を掃除していた利休がきれいに掃き終わると、
最後に落ち葉をパラパラと撒いた。

「せっかく掃いたのになぜですか?」

と人が尋ねると、

「秋の庭には少しくらい落ち葉がある方が自然でいいでしょう。」

と答えたそうです。

弟子に、

「茶の湯の神髄とは何ですか?」

と問われた時の問答ですが。

「茶は服の良き様に点(た)て、
炭は湯の沸く様に置き、
冬は暖かに夏は涼しく、
花は野の花の様に生け、
刻限は早めに、
降らずとも雨の用意、
相客に心せよ」

と説いたとされます。

(以上の答えを『利休七則』と言います。)

当たり前のことこそが最も難しいと利休は悟しました。

秀吉は茶の湯の権威が欲しくて、
「秘伝の作法」を作り、
これを秀吉と利休だけが教える事の出来る資格としました。

利休はこの作法を織田有楽斎に教えた時に、

「実はこれよりも、
もっと重要な一番の極意があります。」

と告げました。

「是非教えて下さい!」

と有楽斎が言うと…

利休曰く「それは自由と個性なり」と答えたそうです。

利休は秘伝などと言うもったいぶった作法は全く重要ではないと説いたのでした。

利休が設計した二畳敷の小さな茶室。

『待庵(たいあん)』(国宝)

は、限界まで無駄を削ぎ落とした究極の茶室だそうです。

利休が考案した入口(にじり口)は、
間口が狭いうえに低位置にあり、
いったん頭を下げて這うような形にならないと中に入れません。

それは天下人となった秀吉も同じだで、
しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。
つまり、
一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、
茶室という空間の中では、
何人も、
「平等の存在」
になるというものだった。

このように、
茶の湯に関しては秀吉といえども利休に従うしかなかった様です。

利休が残した言葉に、
「世に茶飲むる人は多けれど、
茶の道を知らぬは、
茶にぞ飲まるる」。

(茶の道を知らねば茶に飲まれる)

と言う言葉があるそうです。

利休と秀吉は茶の湯の最盛期。

「北野大茶湯」が蜜月のピークでした。

やがて徐々に両者の関係が悪化してゆきます。

秀吉は貿易の利益を独占する為に、
堺に対し税を重くするなど様々な圧力を加え始め、
独立の象徴だった壕(ごう)を埋めてしまいます。

これは信長でさえやらなかった事だそうです。

堺の権益を守ろうとする利休を秀吉は煩わしく感じ初めます。

1590年(利休68歳)、
秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、
利休の愛弟子・山上宗二が、
秀吉への口の利き方が悪いとされ、
その日のうちに処刑されます。
(しかも耳と鼻を削がれて)

衝撃を受ける利休。

茶の湯に関しても、
秀吉が愛したド派手な「黄金の茶室」は、利休が理想とする木と土の素朴な草庵とは正反対のもの。

秀吉は自分なりに茶に一家言を持っているだけに、
利休との思想的対立が日を追って激しくなっていきます。

そして翌1591年!1月13日の茶会で、
派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながらも利休は、

「黒は古き心なり!」

と平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出しました。

他の武将が居る前で秀吉は面目を潰されてしまいます。

9日後の22日、温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。

秀長は諸大名に対し、

「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る!」

と公言するほど利休を重用していました。

利休は最大の後ろ盾をなくしました。

それから1ヵ月後の2月23日、
利休は突然秀吉から

「京都を出て堺にて自宅謹慎せよ!」

と命令を受ける。

利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際に、
門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われました。

(正確には利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に置いたとされています)

大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、
上から見下ろすとは無礼極まりないという事だった。

秀吉は利休に赦しを請いに来させて、
上下関係をハッキリ分からせようと思っていたようです。

秀吉の意を汲んだ家臣団のトップ。

前田利家は利休のもとへ使者を送り、
秀吉の妻(おね)、
或いは母(大政所)
を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言する。

だが、利休はこれを断った。

「秘伝の作法」に見られるような、
権力の道具としての茶の湯は、
「侘び茶」の開祖・村田珠光も、
師の武野紹鴎も、
絶対に否定したはず。

秀吉に頭を下げるのは先輩茶人だけでく、
茶の湯そのものも侮辱することになる。

利休には多くの門弟がいたが、
秀吉の勘気に触れることを皆が恐れて、
京を追放される利休を淀の船着場で見送ったのは古田織部と細川三斎のたった2人だけだった。

利休が謝罪に来ず、
そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達した。

2月25日。
利休像は山門から引き摺り下ろされ、
京都一条戻橋のたもとで磔にされる。

26日、秀吉は気が治まらず、
利休を堺から京都に呼び戻す。

27日、織部や三斎ら弟子たちが利休を救う為に奔走。

そして28日。

この日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。

利休のもとを訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は…。

「切腹せよ」。

この使者は利休の首を持って帰るのが任務だった。

利休は静かに口を開く。

「茶室にて茶の支度が出来ております。」

使者に最後の茶をたてた後、利休は一呼吸ついて切腹した。

享年69歳でした。

利休の首は磔にされた利休の木像の下に晒されました。

利休の死から7年後。

秀吉も病床に就き他界する。

晩年の秀吉は、
短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、
利休と同じ作法で食事をとったり、
利休が好む枯れた茶室を建てさせたと伝えられます。

さらに17年後の1615年。

大坂夏の陣の戦火は堺の街をも焦土と化し、
ここで豊臣家は滅亡しました。

後日談、

利休の自刃後に高弟の古田織部が秀吉の茶頭となりました。

秀吉が没すると、
織部は家康に命じられて2代徳川秀忠に茶の湯を指南した。

だが、
織部の自由奔放な茶が人気を集め始めると、
家康は織部が利休のように政治的影響力を持つことを恐れるようになり、
そして…

大阪の陣の後に、

「織部は豊臣方と通じていた」

として切腹を命じた。

利休、織部に切腹命令が出たことは世の茶人たちを萎縮させた。

徳川幕府の治世で社会に安定が求められると利休や織部のように既成の価値観を破壊して新たな美を生み出す茶の湯は危険視され保守的で雅な、

「奇麗さび」

とされる小堀遠州らの穏やかなものが主流になります。

後年、
利休の孫・千宗旦が家を再興する。

そして宗旦の
次男・宗守が『武者小路千家官休庵』を、
三男・宗佐が『表千家不審庵』を、
四男・宗室が『裏千家今日庵』を、
それぞれ起こしました。

利休の茶の湯は400年後の現代まで残り、
今や世界各国の千家の茶室で多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいます。

利休が公式に開いた最後の茶会の客は家康だったそうです。
(切腹の1ヶ月前)

以上の様に今ではあまり知られていない、
「茶の会」。

昔は今と違い「茶」は凄く大切であり、
嗜むべき物でした。

皆さんも一度、茶道を始めてみては如何でしょうか?(笑)

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