歴史

2012年2月22日 (水)

戦国武将と茶

今日は戦国武将のたしなみの一つであり、
天下人から各諸大名達までが愛した「茶」をご紹介します。

茶の道で有名な人。

千利休(せんのりきゅう)

についてお話しします。

信長、秀吉という2人の天下人に仕え、
茶道千家流の始祖となった“茶聖”千利休。

本名は田中与四郎。
号は宗易(そうえき)。

大阪堺の魚問屋『ととや』に生まれる。

当時の堺は貿易で栄える国際都市であり、京の都に匹敵する文化の発信地でした。

堺は戦国期にあって大名に支配されず、
商人が自治を行ない、
周囲を壕で囲って浪人が警備をするという小さな独立国の様だったようです。

多くの商人は同時に優れた文化人でもあったみたいです。

父は堺で高名な商人であり、
利休は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に16歳で茶の道に入ります。

18歳の時に当時の茶の湯の第一人者
武野紹鴎(じょうおう)
の門を叩き23歳で最初の茶会を開きました。

紹鴎の心の師は、
紹鴎が生まれた年に亡くなります。

「侘(わ)び茶」の祖
村田珠光(じゅこう、1423-1502)。

珠光は“あの”一休の弟子で、人間としての成長を茶の湯の目的とし、
茶会の儀式的な形よりも、
茶と向き合う者の精神を重視していました。

大部屋では心が落ちつかないという理由から座敷を屏風で四畳半に囲ったことが後の茶室へと発展していきます。

紹鴎は珠光が説く、
「不足の美」(不完全だからこそ美しい)
に禅思想を採り込み、
高価な名物茶碗を盲目的に有り難がるのではなく、
日常生活で使っている雑器(塩壷など)
を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努めました。

そして、精神的充足を追究し、“侘び”(枯淡)を求めました。

利休は師の教えをさらに進め、
“侘び”の対象を茶道具だけでなく、
茶室の構造やお点前の作法など、
茶会全体の様式にまで拡大していきます。

また、当時は茶器の大半が中国・朝鮮からの輸入品であったが、
利休は新たに樂茶碗など茶道具を創作し、
掛物には禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選びました。

利休は“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を削って緊張感を生み出し、
村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させました。

1568年 利休が46歳の時、
活力に湧く自由都市・堺に信長が目をつける。

信長は圧倒的な武力を背景に堺を直轄地にし、
軍資金を差し出させ鉄砲の供給地としました。

新しいモノに目がない信長は、堺や京の町衆(町人)から強制的に茶道具の名品を買い上げ(信長の名物狩り)、
武力・政治だけでなく文化の面でも覇権を握ろうとします。

信長は許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、
武功の褒美に高価な茶碗を与えるなど、
あらゆる面で茶の湯を利用しました。

※現代でも高価な茶碗は重宝されます。

戦国武将たちにとって名物茶器は一国一城に値する物で、
その価値は今とは比較にならないものだったのです。

それを示す話しとして有名な話しがあります。

名物茶釜「平蜘蛛釜」を所有していた大和の武将・松永久秀は数度にわたって信長を裏切っているにもかかわらず、
信長は問答無用で攻め滅ぼす事をしませんでした。

1577年、信貴山城にこもった久秀を2万の織田軍で包囲した際、

「もし平蜘蛛釜を差し出せば命までは奪わぬっ!」

と降伏勧告を信長が出しました。

信長が喉から手が出るほど平蜘蛛釜を欲していた事を知っていた久秀は、

「信長にはワシの首も平蜘蛛釜もやらぬっ!」と、

なんと平蜘蛛釜に火薬を詰めて自分の首に縛り付け、
釜もろとも爆死して天守閣を吹っ飛ばしたと言う説があります。

現代では信じられなけど、
茶器が人の命を左右する時代が日本にはありました。

※(利休は43歳の時に久秀主催の茶会に茶匠として招かれています)

信長は堺との綱をより堅固と すべく、
政財界の中心にいて茶人で
もあった3人、
今井宗久(そうきゅう)、
津田宗及(そうぎゅう)、
利休を、
茶頭(茶道、茶の湯の師匠)
として重用しました。

利休は1573年(利休51歳)、
1575年(53歳)と2度、
信長主催の京都の茶会で活躍します。

信長の家臣は茶の湯に励み、
ステータスとなる茶道具を欲しがりました。
彼らにとっての最高の栄誉は信長から茶会の許しを得る事でした。

必然的に、茶の湯の指南役となる利休は一目置かれるようになります。

利休60歳の1582年6月1日、
本能寺にて信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催されました。
そしてこの夜、信長は明智光秀の謀反により、多数の名茶道具と共に炎に散りました。

後継者となった秀吉は、
信長以上に茶の湯に熱心だったそうです。

秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りし、
後に「利休十哲」と呼ばれる、
細川三斎(ガラシアの夫)、
織田有楽斎(信長の弟)、
高山右近(キリシタン)、
“ひょうげもの”古田織部など、
優れた高弟が生まれました。

1585年(利休63歳)、
秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、
天皇から「利休」の号を賜わります。
(それまでは宗易と名乗っていました)。

このことで、その名は天下一の茶人として全国に知れ渡たります。

翌年に大阪城で秀吉に謁見した大名・大友宗麟は、
壁も茶器も金で統一された、
「黄金の茶室」
で茶を服しました。

のちに吉麟は、
「秀吉殿に意見を言えるのは利休しかいない」と記したそうです。

秀吉は茶会を好んだが、

本能寺で大量の名物茶道具が焼失したこともあり、
自慢できる茶器が不足していました。

そこで利休は積極的に鑑定を行ない新たな「名品」を生み出していくのです。

天下一の茶人の鑑定には絶大な信頼があり、
人々は争うように利休が選んだ茶道具を欲しがるようになりました。

利休は自分好みの渋くストイックな茶碗を、
ろくろを使用しない陶法で知られる樂長次郎を楽焼職人に造らせました。

武骨さや素朴さの中に“手びねり”ならではの温かみを持つ樂茶碗を、
人々はこれまで人気があった舶来品よりも尊ぶようになり、
利休の名声はさらに高まりました。

1587年(利休65歳)、
秀吉は九州を平定。

実質的に天下統一を果たしました。

祝勝と、内外への権力誇示を目的として、史上最大の茶会、
「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」
を北野天満宮で開催します。

この茶会には公家や武士だけでなく、
百姓や町民も身分に関係なく参加が許されました。

まさに国民的行事?

秀吉は「茶碗1つ持ってくるだけでいい」と広く呼びかけ、
利休が総合演出を担当しました。

当日の亭主には、
利休、
津田宗及、
今井宗久、
そして秀吉本人という4人の豪華な顔ぶれが並びました。

拝殿では秀吉秘蔵の茶道具が全て展示され、
会場全域に設けられた茶席は実に800ヶ所以上となりました。

秀吉は満足気に各茶席を見て周り、
自ら茶をたて人々にふるまったと伝えられます。

ある初夏の朝。

利休は秀吉に、

「朝顔が美しいので茶会を致しませぬか?」

と使いを出しました。

秀吉が、

「満開の朝顔の庭を眺めての茶会はさぞかし素晴らしいのだろうな。」

と楽しみにやって来ると、
庭の朝顔はことごとく切り取られ、
全くなかった。

ガッカリしながら秀吉が茶室に入ると、
床の間に一輪だけ朝顔が生けてあった。
一輪であるがゆえに際立つ朝顔の美しさ。
秀吉は利休の美学に脱帽したといいます。

秋に庭の落ち葉を掃除していた利休がきれいに掃き終わると、
最後に落ち葉をパラパラと撒いた。

「せっかく掃いたのになぜですか?」

と人が尋ねると、

「秋の庭には少しくらい落ち葉がある方が自然でいいでしょう。」

と答えたそうです。

弟子に、

「茶の湯の神髄とは何ですか?」

と問われた時の問答ですが。

「茶は服の良き様に点(た)て、
炭は湯の沸く様に置き、
冬は暖かに夏は涼しく、
花は野の花の様に生け、
刻限は早めに、
降らずとも雨の用意、
相客に心せよ」

と説いたとされます。

(以上の答えを『利休七則』と言います。)

当たり前のことこそが最も難しいと利休は悟しました。

秀吉は茶の湯の権威が欲しくて、
「秘伝の作法」を作り、
これを秀吉と利休だけが教える事の出来る資格としました。

利休はこの作法を織田有楽斎に教えた時に、

「実はこれよりも、
もっと重要な一番の極意があります。」

と告げました。

「是非教えて下さい!」

と有楽斎が言うと…

利休曰く「それは自由と個性なり」と答えたそうです。

利休は秘伝などと言うもったいぶった作法は全く重要ではないと説いたのでした。

利休が設計した二畳敷の小さな茶室。

『待庵(たいあん)』(国宝)

は、限界まで無駄を削ぎ落とした究極の茶室だそうです。

利休が考案した入口(にじり口)は、
間口が狭いうえに低位置にあり、
いったん頭を下げて這うような形にならないと中に入れません。

それは天下人となった秀吉も同じだで、
しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。
つまり、
一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、
茶室という空間の中では、
何人も、
「平等の存在」
になるというものだった。

このように、
茶の湯に関しては秀吉といえども利休に従うしかなかった様です。

利休が残した言葉に、
「世に茶飲むる人は多けれど、
茶の道を知らぬは、
茶にぞ飲まるる」。

(茶の道を知らねば茶に飲まれる)

と言う言葉があるそうです。

利休と秀吉は茶の湯の最盛期。

「北野大茶湯」が蜜月のピークでした。

やがて徐々に両者の関係が悪化してゆきます。

秀吉は貿易の利益を独占する為に、
堺に対し税を重くするなど様々な圧力を加え始め、
独立の象徴だった壕(ごう)を埋めてしまいます。

これは信長でさえやらなかった事だそうです。

堺の権益を守ろうとする利休を秀吉は煩わしく感じ初めます。

1590年(利休68歳)、
秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、
利休の愛弟子・山上宗二が、
秀吉への口の利き方が悪いとされ、
その日のうちに処刑されます。
(しかも耳と鼻を削がれて)

衝撃を受ける利休。

茶の湯に関しても、
秀吉が愛したド派手な「黄金の茶室」は、利休が理想とする木と土の素朴な草庵とは正反対のもの。

秀吉は自分なりに茶に一家言を持っているだけに、
利休との思想的対立が日を追って激しくなっていきます。

そして翌1591年!1月13日の茶会で、
派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながらも利休は、

「黒は古き心なり!」

と平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出しました。

他の武将が居る前で秀吉は面目を潰されてしまいます。

9日後の22日、温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。

秀長は諸大名に対し、

「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る!」

と公言するほど利休を重用していました。

利休は最大の後ろ盾をなくしました。

それから1ヵ月後の2月23日、
利休は突然秀吉から

「京都を出て堺にて自宅謹慎せよ!」

と命令を受ける。

利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際に、
門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われました。

(正確には利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に置いたとされています)

大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、
上から見下ろすとは無礼極まりないという事だった。

秀吉は利休に赦しを請いに来させて、
上下関係をハッキリ分からせようと思っていたようです。

秀吉の意を汲んだ家臣団のトップ。

前田利家は利休のもとへ使者を送り、
秀吉の妻(おね)、
或いは母(大政所)
を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言する。

だが、利休はこれを断った。

「秘伝の作法」に見られるような、
権力の道具としての茶の湯は、
「侘び茶」の開祖・村田珠光も、
師の武野紹鴎も、
絶対に否定したはず。

秀吉に頭を下げるのは先輩茶人だけでく、
茶の湯そのものも侮辱することになる。

利休には多くの門弟がいたが、
秀吉の勘気に触れることを皆が恐れて、
京を追放される利休を淀の船着場で見送ったのは古田織部と細川三斎のたった2人だけだった。

利休が謝罪に来ず、
そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達した。

2月25日。
利休像は山門から引き摺り下ろされ、
京都一条戻橋のたもとで磔にされる。

26日、秀吉は気が治まらず、
利休を堺から京都に呼び戻す。

27日、織部や三斎ら弟子たちが利休を救う為に奔走。

そして28日。

この日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。

利休のもとを訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は…。

「切腹せよ」。

この使者は利休の首を持って帰るのが任務だった。

利休は静かに口を開く。

「茶室にて茶の支度が出来ております。」

使者に最後の茶をたてた後、利休は一呼吸ついて切腹した。

享年69歳でした。

利休の首は磔にされた利休の木像の下に晒されました。

利休の死から7年後。

秀吉も病床に就き他界する。

晩年の秀吉は、
短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、
利休と同じ作法で食事をとったり、
利休が好む枯れた茶室を建てさせたと伝えられます。

さらに17年後の1615年。

大坂夏の陣の戦火は堺の街をも焦土と化し、
ここで豊臣家は滅亡しました。

後日談、

利休の自刃後に高弟の古田織部が秀吉の茶頭となりました。

秀吉が没すると、
織部は家康に命じられて2代徳川秀忠に茶の湯を指南した。

だが、
織部の自由奔放な茶が人気を集め始めると、
家康は織部が利休のように政治的影響力を持つことを恐れるようになり、
そして…

大阪の陣の後に、

「織部は豊臣方と通じていた」

として切腹を命じた。

利休、織部に切腹命令が出たことは世の茶人たちを萎縮させた。

徳川幕府の治世で社会に安定が求められると利休や織部のように既成の価値観を破壊して新たな美を生み出す茶の湯は危険視され保守的で雅な、

「奇麗さび」

とされる小堀遠州らの穏やかなものが主流になります。

後年、
利休の孫・千宗旦が家を再興する。

そして宗旦の
次男・宗守が『武者小路千家官休庵』を、
三男・宗佐が『表千家不審庵』を、
四男・宗室が『裏千家今日庵』を、
それぞれ起こしました。

利休の茶の湯は400年後の現代まで残り、
今や世界各国の千家の茶室で多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいます。

利休が公式に開いた最後の茶会の客は家康だったそうです。
(切腹の1ヶ月前)

以上の様に今ではあまり知られていない、
「茶の会」。

昔は今と違い「茶」は凄く大切であり、
嗜むべき物でした。

皆さんも一度、茶道を始めてみては如何でしょうか?(笑)

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2012年2月17日 (金)

徳川家の甲冑開き

徳川家では具足開きという風習がありました。

家康公が関が原の合戦で着用した歯朶具足を黒書院に飾り江戸開府時を偲んだと伝わります。

歯朶具足の由来は、
家康公が霊夢により悩まされ、
奈良の甲冑師(函工)、
岩井与左衛門に命じて作らせたと伝えられています。

兜に生革金箔置きの歯朶の前立が添うところから、歯朶具足(しだのぐそく)と呼ばれました。

関が原の合戦で着用し、
大阪の陣に身近に置いて勝利を得たことで吉祥の鎧として尊ばれました。


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歯朶具足(久能山東照宮博物館所蔵)       

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この甲冑に付属する歯朶の前立。

家康薨去後、久能山に安置されましたが家康を崇拝していた3代家光が江戸城に移管し、将軍家の武器の筆頭に位置付けられました。

四代家綱は、この具足を模造して御写形(おうつしかた)と称し、毎年正月11日に黒書院に床飾りされる事になりました。

この行事は代々の将軍が受け継ぎ、幕末まで続く様になりました。

一般には余り知られていない具足開き・鎧開き。

これを機会に歴史や風習を知り、大切にしていって下さい。m(_ _)m

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2012年2月11日 (土)

変わり兜

以前の続きで変わり兜を紹介します。

まずは、


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熊毛植大水牛兜(くまげうえおおすいぎゅうかぶと)

これは文字通り熊の毛皮を頭形兜に貼り付けて製作した物です。

次は、


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蝶形兜(ちょうなりかぶと)

これも頭形兜に和紙で張りかけて製作します。

次は、


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鯖尾形兜(さばおなりかぶと)

これは鉄板を打出あるいは矧ぎ合わせて漆を厚塗りした兜です。

次は、


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鯱尾形兜(しゃちおなりかぶと)

これは和紙で張りかけて製作されてます。

昔は変わった形の兜は鉄板・和紙・木等で製作されていました。

次は、


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立雲形兜(たちぐもなりかぶと)


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菊重形兜(きくがさねなりかぶと)


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蟹形兜(かになりかぶと)

昔の職人さん・武将は色々な物を兜と言う物に具現化し、願掛けをしたのだと考えられます。

他にも、


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唐冠形兜(とうかむりなりかぶと)


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角頭巾形兜(すみずきんなりかぶと)

等と色々な物を兜としました。

植物・食べ物・生き物・風景等、昔の人は本当に想像が豊かだったんだなぁーと思う作品ばかりです。

本当に日本の鎧兜・甲冑は凄いし素晴らしい!(>_<)

皆さんも、もっと日本の鎧兜・甲冑を知って下さい!

そして、

日本の伝統工芸を大切にし、

保存が出来る様に協力して下さいm(_ _)m

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2012年2月 7日 (火)

凄い兜!

今日は変わり兜を紹介します!( ´ ▽ ` )ノ
まず、

一般的な兜をお教えします。

一般的に端午の節句で知られる兜を、

筋兜(すじかぶと)

と言います。

そして、

彦根でお馴染み!

朱具足の井伊家の兜を、

頭形兜(ずなりかぶと)

と言います。

ただし!

横についている金の角を外した状態での事です。

その一般的な兜に和紙等を使い張りかけて形を形成した兜の事を変わり兜と言います。

その種類は正確にはわかってませんが。

有に何千種類とあるとされます。

ここにいくつか変わり兜を載せます。

まずは有名な武将の兜から。

豊臣秀吉の兜。


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一ノ谷形兜(いちのたになりかぶと)。


次は、

徳川家康の兜。


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大黒頭巾形兜(だいこくずきんなりかぶと)。

黒田長政の兜。


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銀箔押一ノ谷形兜(ぎんぱくおしいちのたになりかぶと)。

松平信一の兜。


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黒漆塗木菟形兜(こくしつぬりみみずくなりかぶと)。

まだまだありますがまた後程紹介していきますね(⌒▽⌒)

お次は、

ウサギの耳を模した兜。

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兎耳形兜(とじなりかぶと)。

説では、ウサギの様に俊敏に戦場でも動き回れる様に等といった願掛けの意味合いで製作されたとされます。

次は、

蜻蛉形兜(とんぼなりかぶと)。

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昔から蜻蛉は縁起虫とされ、別名「勝虫」とされて武将達に好まれてきました。

この兜も戦での神がかり的な活躍を願い製作されたのかも知れない…。

以上が変わり兜の一部になります。

次は変わり兜でも優美な変わり兜を紹介します。( ´ ▽ ` )ノ


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2011年12月 8日 (木)

練革兜

練革兜「ねりかわかぶと」

練革兜は練鉢・練兜とも呼び、
古墳時代に発生し江戸時代末期まで用いられました。

練革鉢は牛の生皮を膠液に浸して柔らかくし、
その上で、
木型で成形した兜です。

同じ手法で制作した具足を、

練具足「ねりぐそく」

と呼びます。

この練革兜が江戸時代末期になると、
大ブレイクします。

その理由は、

制作が安易である事、
軽便で活動し易い等から用いられました。

鉄砲に対しての効果はあまり期待は出来ませんが…(~_~;)

鉄砲を活用しずらい至近距離の戦いでは、
充分に防禦の効果は得られたそうです。

そんな理由から人気があったそうです。

練革で作られる鉢は形を選びません!

小星兜・筋兜・桃形兜・頭形兜・変わり兜等、

ほとんどのタイプに対応が可能なのです!(⌒▽⌒)

更に、

小星兜・筋兜の

※筋とは「兜の鉢の縦の筋」の事。

筋は紙縒「こより」

を作り、
鉢の表面に据えて制作します。

こうする事で写真の様な兜が仕上がります。

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まぁ~。

効果の程はさておき、

昔の人の美意識へのこだわりは感じられますね( ´ ▽ ` )

さすが‼

昔の職人さんは凄い!

☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

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2011年10月11日 (火)

嫁入り道具の……

今日はあまり知られていない、

大名家の婦女子用甲冑のお話をしたいと思います。( ´ ▽ ` )ノ

限られたごく一部の裕福な大名家だけに婦女子用の甲冑が製作されていました。

実際に着用したかは分かりませんが…(~_~;)

おもに大名家の婦女子が他家へ嫁に嫁ぐ際に調度品として製作されたとされています。

世に余り知られていないのは、
婦女子用甲冑は極めて少ない為なのである。

婦女子用甲冑が婚礼の調度品として贈られる事が通例化していれば、
もう少し遺品があったかも知れませんね( ̄ー ̄)

それだけに、
遺品は極めて少なく、特殊な事例であったと思われます。

基本的には婚家に伝来するはずなのですが…(~_~;)

唯一、
井伊家には、
井伊直弼(いい・なおすけ)
の次女。
弥千代(やちよ)
所用と言う復古調(ふっこちょう)=「昔の甲冑を模して製作した甲冑の事」

の朱漆塗色々威腹巻具足(しゅうるしぬりいろいろおどしはらまきぐそく)

と言う甲冑は井伊家に伝来しています。

そして、

女性用の甲冑なら華やかな甲冑を連想するはずなのですが…。

華やかな女性らしい甲冑の遺品は、
岡山藩主
池田治政(いけだ・はるまさ)
の正室
米子(よねこ)夫人の着料で実家の酒井家で作らせた、
立涌文色々威二枚胴具足(たてわくもんいろいろおどしにまいどうぐそく)

と、

井伊直弼息女の、
腹巻鎧(はらまきよろい)

くらいではないかとされています。

婦女子用の甲冑と言えど、
一般的に知られる甲冑と何ら変わるところはなく、
華やかな甲冑は極めて少ないとされます。

画像は、
今、確認出来る資料から紹介出来る物を載せました( ´ ▽ ` )ノ

まずは……

伊達綱村(だて・つなむら)
室、
仙姫所用

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黒漆塗瓦札萌葱糸綴畳具足(くろいるしぬりかわらざねもえぎいととじたたみぐそく)

続いて、

真田幸貫(さなだ・ゆきつら)
室、
雅姫所用


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魚鱗札畳具足(ぎょりんざねたたみぐそく)

そして、

池田治政(いけだはるまさ)
室、
米子(よねこ)所用


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立涌文色々威二枚胴具足(たてわくもんいろいろおどしにまいどうぐそく)

最後に、

井伊直弼(いいなおすけ)
次女、
弥千代(やちよ)

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朱漆塗色々威腹巻具足(しゅうるしぬりいろいろおどしはらまきぐそく)

これ等が、
今現在確認されている婦女子用甲冑です。(⌒▽⌒)

世の中に余り知られていない女性用甲冑。
もっと出てきて欲しいです!( ̄▽ ̄)

まぁ、私は製作者なので、
そのうち、
女性用の甲冑・鎧を製作して世の中に知らして行きたいと思います( ´ ▽ ` )ノ笑

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2011年10月10日 (月)

昔は……

今日は甲冑を写させていた大名家のお話をしましょう( ´ ▽ ` )ノ

昔から各、大名家は先代の甲冑を写させて製作していました。

これは先代藩主の武功(戦での手柄)
に習い、自身も先代の様に武勲や功績を上げたいが為であるとされています。

江戸大名においては藩祖や草創期の藩主が戦陣において使用した甲冑等は神格化され、権威の象徴にもなりました。

全てを写させたり、立物(兜の前の飾り)
等特徴のあるパーツの写しを後代の藩主の着料として製作させている例が多くみられます。

歴代藩主全員の場合もあれば、一部の藩主に限った場合もありました。

有名な家柄で例をあげるなら、

将軍家
徳川家康の着料である甲冑、
大黒頭巾形兜(だいこくずきんなりかぶと)で有名な歯朶具足(しだぐそく)。


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福島藩主
黒田家の初代着料の写し。


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彦根藩主
井伊家の天衝(てんつき)「金の角」の脇立物。


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熊本藩主
細川家の山鳥の尾の頭立物。

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松江藩主
松平家の板屋貝の大前立。


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岡崎藩主
本多家の鹿角の立物。


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等、様々な写しがあります。

徳川家康の歯朶具足においては幕府の重宝とされ、四代将軍家綱以降歴代の将軍家は、この具足の写し、

正式名称「御写形御召御具足」(おうつしがたおめしおぐそく)

を作らせており、現在では19領が確認されています。

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2011年10月 7日 (金)

鎧兜・甲冑の歴史

遥か昔

鎧兜・甲冑の呼び名は「カワラ」「ヨロヒ」「モノノグ」「キセナガ」「具足」と呼び名を変えていきました。

最初の呼び名「カワラ」については、江戸時代の学者・新井白石さんが「皮」=外面を覆う固い部分、つまり人間の皮膚や動物の毛皮、あるいは植物、果物等の皮の事を「カワ」とし、

これに「ラ」を添え言葉とし「カワラ」と呼ぶようになったと伝えられています。

やがて、「カワラ」から「ヨロヒ」と変化します。

「ヨロヒ」は備わる、着ると言う意味の「具う」(よろう)から出た言葉と言われます。

これを、中国風に言うと「具足」と読む様になります。

兜(かぶと)
は、頭に被る物と言う意味で「冑」と書く事もありました。

「ヨロヒ」から「具足」と呼ばれる様になるのは南北朝時代以後になります。

弥生時代は、

「短甲」(たんこう)
と、呼ばれる甲冑が誕生します。

そして、「挂甲」(けいこう)
と言う甲冑が奈良時代に誕生します。

奈良時代になると「挂甲」以外に「綿甲」(めんこう)「革甲」(かわこう)と言う甲冑が誕生します。

平安・鎌倉時代になると、
弓矢(ゆみや)・太刀・(たち)長巻(ながまき)等の武器が主力となり、戦闘形態も徒歩戦(かちせん)から騎射(騎馬)戦へと変わります。

この騎射戦に有利な武具として「大鎧」(おおよろい)が誕生します。

別名を「式正の鎧」・「御守り鎧」とも言います。

この他に、

「胴丸」(どうまる)・「腹当」(はらあて)
と言う武具があります。

そして、南北朝・室町時代になると、南北両朝それぞれに属した諸国の武士の対立が激化し、争乱の絶えない時代になります。

合戦も山城の攻防戦等、地域的な戦闘に発展していきます。

こうした背景から、戦闘形態も一騎駆けから集団戦へと変化します。

武器も弓矢より、刀剣・槍等による接戦の時代になり、鎧も従来の大鎧よりも動きやすい物が要求される様になり、

平安・鎌倉時代に使われていた胴丸・腹当の長所を取り入れた「腹巻」(はらまき)と言う最新形式の物が製作される様になります。

そして、

戦国時代。

戦国時代当初は槍・弓矢が主力でしたが、鉄砲が伝来して鎧も一大改造が行われます。

そして、

誕生したのが、今の博物館等でよく観られる甲冑。

「当世具足」(とうせいぐそく)

になります。

当世具足は胴丸が次第に変化していった物で、最初は槍への防御に重点を置いて製作されていたのですが、鉄砲の出現により兵士は更なる防具が必要になり、

顔を守る防具「頬当・面頬」(ほほあて・めんぽう)

喉元を守る「咽喉輪」(のどわ)

腕・手を守る「籠手」(こて)

脇の隙間を守る「脇曳」(わきびき)

太ももを守る「佩楯」(はいだて)

等の「小具足」(こぐそく)と呼ばれる防具が誕生します。

これら小具足を具しているので「具足」
と呼ぶ様になります。

やがて寛永〜寛文頃になると、より強固な「様具足」(ためしぐそく)が製作され、文化・文政頃には復古調の鎧が作られます。

幕末には、軽量である事や生産性の上から革の甲冑が流行しますが、攻撃武器、特に鉄砲が急激に発展した為、遂に甲冑は鉄砲に屈し廃れる事になります。

(T ^ T)

以上が鎧・甲冑の歴史になります。

今の世の中から鎧・甲冑は存在と歴史が消え去ろうとしています。

どうか、

皆さんがもっと鎧・甲冑に興味を示し、保存して行く事を考え、後世に残して行ける様にちゃんとした形で伝えて行ける様に、協力して下さい(⌒▽⌒)

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2011年6月25日 (土)

姫路城にまつわる話 〜最終話〜

長壁姫、小刑部姫、刑部姫(おさかべひめ)とは、姫路城に隠れ住むといわれる日本の妖怪。


姫路城の天守閣に隠れ住んでおり、年に一度だけ城主と会い、城の運命を告げていたと言う。

松浦静山さんの随筆『甲子夜話』によれば、長壁姫がこのように隠れ住んでいるのは人間を嫌っている為とあり、江戸時代の怪談集『諸国百物語』によれば、住処に人が立ち入ると、1丈(約3メートル)もの身長に巨大化して追い払ったという。

鳥山石燕さんの『今昔画図続百鬼』では「長壁(おさかべ)」とされ、コウモリを従えた老姫の姿で描かれている。

一方で江戸時代の奇談集『老媼茶話』では十二単を着た気高い女性とされ、小姓の森田図書が肝試しで天守閣に駆け登ったところで長壁姫と出会い、「何をしに来た」と訊ねられて「肝試しです」と答えると、その度胸と率直さに感心した長壁姫は肝試しの証拠品としてしころ(兜につけて首元を守る防具)をくれたという。

時代が合わないため全くの伝説とされるが、前のPart3で紹介した宮本武蔵の若いころの話。

足軽の「滝本又三郎」として木下家定の時代の姫路城に奉公していたという。

ある夜、天守に住む妖怪退治を命じられた武蔵は刀を手に姫路城に上り、妖怪を追い払った。

天守最上階では刑部明神が姫の姿で現れ、武蔵に妖怪退治の礼として銘刀・郷義弘を授けたという。

これは前述の『老媼茶話』をもとにした話とも言われる。

井原西鶴さんによる『西鶴諸国ばなし』では、長壁姫は800匹の眷属を操り、自在に人の心を読みすかし、人の心をもてあそんだと、妖怪として人間離れした記述が書かれている。

北尾政美さんによる黄表紙『夭怪着到牒』にも「刑部姫」の表記で登場しており、同書では刑部姫の顔を見た者は即座に命を失うとある。

長壁姫の正体は一般には老いたキツネとされるが、井上内親王が義理の息子である他部親王との間に産んだ不義の子、伏見天皇が寵愛した女房の霊、姫路城がある姫山の神様だとの説もある。

また民俗学研究所による『綜合日本民俗語彙』では、姫路から備前にかけての地域ではヘビがサカフと呼ばれることから、長壁姫を蛇神とする説唱えられているとの説もある。

前述の『老媼茶話』では猪苗代城の妖姫・亀姫の姉とされ、泉鏡花の小説『天守物語』でもその設定で書かれている。

また実際には、姫路城の本丸にある刑部明神が多くの誤伝を生み、稲荷神と習合するなどして、天守閣に住むキツネの妖怪という伝承が生まれたとする説もあるらしい・・・。
姫路城にはこの様な様々な時代とそれにまつわる話がいくつもあり興味をそそられる。(笑)

皆さんはいかがですか?o(^-^)o

姫路城にまつわる話 〜最終話〜
姫路城にまつわる話 〜最終話〜
姫路城にまつわる話 〜最終話〜

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2011年6月23日 (木)

姫路城にまつわる話 〜Part3〜

〈宮本武蔵と妖怪退治〉

姫路城城主が木下家定であった頃のお話し。

剣豪宮本武蔵が名前を隠し姫路で足軽奉公をしていました。

その頃、城内では天守に妖怪がでるという噂が広まっており、城の見張り番の者たちも恐れをなして、まともに出番を勤めることができない状態が続いていました。

しかし、ただ一人武蔵だけは平気で夜の番をしていました。
それを聞いた家老の一人が、

「その足軽は高名な武芸者宮本武蔵であろう。」

と、名を隠していた武蔵の正体を見破りました。
そして、武蔵に妖怪退治を頼んだのです。

ある夜のこと。

武蔵は手に灯り一つを持って不気味な暗闇の天守閣に登っていった・・・。

武蔵が三階の階段にさしかかった時!

突然あたりを激しい炎が包み、地響きと轟音が起こり、武蔵に襲いかかろうとしました。

すぐさま武蔵は妖怪に斬りかかろうと腰の太刀に手を掛けた。

すると異変はピタリと止まり、あたりはまた何もない暗闇に戻りました。

何事もない3階から武蔵が4階にあがると・・・

また同じような炎と轟音の地響きが起こった。

しかし、武蔵が腰の太刀に手を回すと、またあたりが静けさを取り戻したのである。

そのまま天守閣まで登った武蔵は、妖怪が現れるのを待とうと明け方まで座り続けた。

やがて、眠気に誘われうつらうつらとし始めた頃。

どこからともなく武蔵を呼ぶ声が聞こえてくる。

目を開けると武蔵の前に美しい姫が突如現れた。

「私は姫路城の守り神、刑部明神です。今夜そなたがここに来てくれたおかげで、城に取り付いていた妖怪は恐れをなして逃げていきました。褒美としてこの剣を与えましょう。」

と武蔵の前に白木の箱が現れた。

武蔵が木箱を見つめ、気がつくと刑部明神は消えていました。

目の前の木箱を開けると・・・

名刀 郷義弘(ごうのよしひろ)が入っていのだった。

武蔵はその名刀と共に、また、いつもの生活に戻っていった・・・。

完。

姫路城にまつわる話 〜Part3〜

<宮本武蔵の自画像>

姫路城にまつわる話 〜Part3〜

<刑部神社>

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